:::
:::
内閣大庫档案
内閣大庫档案
1  /  1

内閣大庫档案

史語所所蔵の内閣大庫档案は、もともとは清朝宮廷の「内閣大庫档案」の一部で、各種公文書約三十一万点から成ります。内容は詔令・題奏・移会・賀表・三法司案巻・実録稿本・各種黄冊・簿冊、内閣の各庁房処と修書各館の档案や試題・試巻など多岐にわたっており、明清時代の政治制度・社会・経済・軍事・法律を研究する上で欠かせない文献資料です。これらの档案は清代末期に収蔵庫の破損により内閣大庫から運び出され、その後所有者がたびたび変わりましたが、史語所の創始者傅斯年と陳寅恪の奔走により、最終的には史語所が購入・所蔵するということに落ち着きました。

この展示コーナーは「満洲族の天下」「公式文書」「科挙の試験」という三つの主題で構成しております。ここでは、内閣で保管された制詔・誥敕・題奏本章・史書・朝貢國表章などや、内閣の各庁房処と修書各館の档案、科挙の試験問題・答案用紙や大金榜・小金榜などを展示しています。これら一連の档案は、清代の制度・社会・経済などを研究する上で大変重要な位置を占めています。
滿族天下
滿人入關前原為明建州衛女真族的一支。萬曆中葉(約1580-90年代),努兒哈赤憑藉武力統一女真各部族。崇禎八年(1635),其子皇太極以「滿洲」取代「諸申」(女真),作為新的族稱。次年更改國號「金」為「清」。崇禎十七年(1644),吳三桂引清兵入關,征服中國。 清人以異族入主中原,一方面採行明代制度,籠絡漢族士大夫,一方面卻採取高壓統治,以滿人牽制漢官。清廷厲行滿漢分治,禁止滿漢通婚,強調保持滿人傳統的重要性。對清人而言,傳統的薩滿信仰與藏傳佛教儀式雖然需要維持,但為統治大多數的漢人,儒家的國家祭典也不可廢,這種雙元的政治與文化策略表現在檔案上,是滿漢並書。
官方文書
清代官方文書依其性質可分為三類:一是由皇帝或以皇帝名義發佈的詔令類,例如制、詔、誥、敕、冊、祭文、祝文、諭、旨等。其次是由臣下上呈皇帝的奏疏類,例如題本、奏本、奏摺、表、箋等。第三是官府間往來的文章,有上行的詳文、驗文、稟、狀,平行的啟、移會、移、關牒,以及下行的牌、票、札、示等。 雖然這些文書大體依明代的舊制,但仍然有所變革。康熙朝(1662-1722)發展出來的奏摺制度即為明代所無。乾隆(1736-1795)初廢奏本後,奏摺就與題本成為官員向皇帝言事的主要文書。本所的收藏以題本居多,奏摺較少。 
科舉考試
清代士子如要求取功名,首先必須參加童試,取得府、州、縣學生員(俗稱秀才)的資格。生員(包括獲選入國子監讀書之監生、獲選充貢之貢生)科考名列前茅准予錄送者,得赴省城,參加三年一科之鄉試。中式乃稱舉人,可於次年進京向禮部投呈,報考會試。中式稱貢士,隔兩個月,進宮參加殿試,欽定三甲名次;第一甲賜進士及第,第二甲賜進士出身,第三甲賜同進士出身。第一甲第一名俗稱狀元,第二名榜眼,第三名探花。  清沿明制,鄉試、會試各分三場,一日一場。首場試四書文三題及五言韻詩一首,次場試五經題各一,均以八股程式作答,末場試策論。各場試卷彌封,並請專人以硃筆謄錄。鄉試、會試與殿試後依例進呈題名錄,並刊刻闈墨、硃卷。 光緒三十一年(1905),清廷廢止科舉,自唐(618-907)以來實行一千三百多年的科舉制度就此走入歷史。