仁宗睿皇帝(嘉慶)の遺詔
乾隆帝以降、皇帝の遺詔の製作は、多くは臣下が皇帝の諭令の中から適宜選んだもので 、彼の功績をひとしきり賞賛し、亡くなった皇帝の口調でもって自らの歴史的地位を定めていくというものである。嘉慶帝の遺詔を公表した一ヵ月あまり後、道光帝はその遺詔の中に書かれた乾隆が避暑山莊で誕生したということが事実と相違することに気付いた。しかしその時、すでに各地へ宣布する官員を派遣済みであった。道光帝はやむをえず、「中外に対しその事の次第を明示する」との勅諭を下し、過ちを取り戻させようと考えた。軍機処も直ちに新しい遺詔を作成し、「灤陽行宮は毎年御幸する土地であり、我が皇父の生誕地でもある。予は遺憾がない」という部分を、「我が皇祖、皇父の御霊のいますところである 」と訂正した。本所に所蔵している嘉慶の遺詔は元々天下に公布する予定であった版本である。
- 典藏號
- 038280-001
- 期間
- 嘉慶25年7月25日 (1820.09.02)
- 尺寸
- 79.3x171.3 cm
- 材質
- 紙