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小屯127号甲骨坑(YH127)発掘70周年記念特別展示
小屯127号甲骨坑(YH127)発掘70周年記念特別展示
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小屯127号甲骨坑(YH127)発掘70周年記念特別展示

清末の1899年、河南省安陽でたびたび出土していた甲骨が殷代の文物であることが判明すると、たちまち盗掘や濫掘が横行し、この時数万点に及ぶ甲骨が高価で売買されたといわれます。中華民国成立後の1928年、中央研究院は歴史語言研究所を創設すると直ちに董作賓を安陽小屯村に派遣し、甲骨出土状況の調査に当たらせました。董作賓は史語所への報告の中で、地中の貴重な文物を守るために一刻も早く全面的調査を行なうべきであると訴えたところ、この主張は中央研究院の蔡元培院長に採用され、以後10年間に15回にわたる発掘調査が行なわれることになったのです。安陽殷墟の発掘調査は中国人初の独力による科学的考古調査であり、また西洋の近代考古学の科学的方法を甲骨学研究に取り入れた嚆矢となり、これによって伝統的な金石学や文献史学の限界を打ち破ることが可能になったのです。

史語所が安陽殷墟で計15回にわたって行なった発掘調査は多くの発見をもたらしました。11基の殷王大墓、千三百箇所に及ぶ祭祀坑・車馬坑・陪葬坑、殷代の宮殿・宗廟区・祭壇、そして殷王や貴族が占いに使用した甲骨などです。こうした遺構や遺物は当時の歴史や文化を知る上で重要な情報が含まれいるので、殷代社会の復原作業には欠かせない資料なのです。例えば、董作賓は第三次発掘調査の時に小屯大連坑で「大亀四版」を発見し、それに基づいた研究成果を1931年に『大亀四版考釈』として発表し、「貞人」を甲骨の年代決定や殷代占卜制度解明の基礎とする研究方法を確立しましたが、これによって殷代史研究は大きな進歩をとげるきっかけを得たのです。

15回にわたる安陽発掘調査では、第十次から第十二次を除いた全ての調査で甲骨が出土しており、中でも第十三次調査における小屯127号坑(YH127)の発掘は最も重要な発見です。小屯127号坑からは三千年前の殷王朝の貴重な歴史である甲骨が大量に発見されましたが、その発見の過程も実に劇的なものでした。では、発見時の状況は一体どのようなものだったのでしょうか。その日、つまり1936年6月12日の夕方、史語所の若手考古学者たちが小屯127号坑の壁面から一片の刻辞甲骨を発見した時は、いつものように検出すれば良いと考えていました。しかし、掘り進めるごとに刻辞甲骨が次から次へと現れ、とうとう直径2m、深さ4.8mの灰坑の中いっぱいに甲骨がぎっしり詰まっていることが判明したのです。これら厖大な量の甲骨を守るために石璋如がとった方法は、この「甲骨坑」を「甲骨柱」として周囲の土ごと掘り出し、南京にある史語所本部へ運び室内で改めて甲骨を検出する、というものでした。この独創的な手法は、この後甲骨が出土した場合の実用的な検出方法のひとつとして定着したのです。

小屯127号坑出土の甲骨には以下に挙げるような他の資料には見られない特徴があります。1.殷代貞人の毛筆による筆跡が確認できる。2.殷代の貞人が刻辞の外見を整えるために卜兆の上に更に刀で刻みを入れた痕跡、「刻兆」が見られる。3.甲骨上に残る朱や墨が鮮明な色彩をとどめている。4.甲骨上に刻まれた文字の記述内容が、殷王や貴族による占卜の記録だけでなく各地から貢納された亀の数量や殷王による視察の記録にまで及んでいる。5.「改制背甲」に穴をあけて紐を通して綴じたものがあり、「典冊」の「冊」字はこれの象形文字であると思われる。

小屯127号坑出土甲骨はまず南京に運ばれ整理作業に入りましたが、日中戦争の戦局悪化に伴い長沙・桂林・昆明へと移送され、戦後には台湾の楊梅へ、そして最終的にこの南港へと運び込まれました。しかしこのように長い道のりを旅して来た結果、完全な状態であった甲骨にもひびが入ってしまい、またそれ以外にも無数の甲骨片が専門家によって綴合されるのを待つ状態となっています。

甲骨文と伝世史料との相互研究によって、当時盛んだった疑古派へ反論するに足る十分な証拠が得られるようになったため、これ以後中国古代史学界は古代史にまつわる古典文献の内容を否定することなく、考古資料を積極的に利用して歴史文献の記述の正確さを証明しつつ、歴史文献だけでは解明できなかった疑問点を明らかにしていきました。こうして、伝説の存在とされていた殷は歴史上の存在が確認されたのです。