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与仏有約 - 仏教造像題記中的祈願与実践
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与仏有約 - 仏教造像題記中的祈願与実践

仏との誓約――仏像題記における祈願と実践

本拓本展の主な内容は石刻仏教造像碑の発願文である。石刻造像とは、文字通り石に刻まれた仏像のことをいう。造像という事業は、非常に貴重で、滅多にない経験であるので、仏像が完成した時、発願文を刻んで造像の発端や過程、時間、共同で出資した仏弟子、指導した法師の名、造像内容を記録する。個人あるいは集団が造像を発願した目的もまた非常に重要である。発願は仏教の研鑽、仏道修行の出発点であり、初発心ともいう。発願して造像し、仏陀を供養し、同時に証人となって皆の修行を護持するよう仏に請うのである。発願が生み出す力によって、一方では仰いで仏を供養し、他方では仏の加護を祈るのである。造像によって、発願者と仏陀は深層において互いに通じあうのである。以上のような理由で、私達は今回の展示テーマを「仏との誓約」と設定した。

「仏との誓約」が設定した内容は供養と護持とに分かれる。造像供養とは何か。仏教では、仏の形像(色身)が美しく荘厳されており、世間の言葉では喩えられないと強調する。仏は三十二相・八十種好を有し、観る者は無上の歓喜をおこし、脇目もふらず心あこがれるようになる。これによって仏を学ぶ道を歩みだすのである。仏教の伝播において文字と図像はともに重要で、とりわけ初心者にとっては、仏像の荘厳は視覚によって仏に入門する近道である。

仏教はまた、「畢竟空」「三界唯心」「色身は幻の如し」と説く。よって『金剛経』には、「身相を以て如来を見るを得べからず。……如来の説く所の身相は、即ち身相に非ず」と説き、また、『般若心経』には「色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。」と説いている。しかし、古来の名僧大徳はみな図像の重要性をよく知っていた。『続高僧伝』には、唐代の浄土宗大師善導(613-681)が、浄土変相図を三百幅余りも造ったと記載されている。日本の遊行僧円空(1632-1695)は、一生涯日夜木仏像を彫刻し、四方を行脚して仏像によって信徒と結縁した。円空は十万尊以上の仏像を刻み、現在でも各地の寺院において約五千体が保存されている。以上の二人はともに仏像を通じての布教に成功した。今回展示した拓本を見ると、個人の発願によるものもあり、あるいは信徒が共同で出資し造像したものもある。これは彼らが仏を供養し、敬虔に修行しようとする心を持っていたことを示しており、古代の高僧の願いと何ら異ならない。僧俗が積極的に図像を複製し、無数に造像した過程は、仏教芸術の特徴の一つである。
「仏との誓約」が設定した第二の内容は仏の護持を請うこと、換言すれば加護・加持である。なぜ仏の加持を請うことが必要なのか。発願は修行者の実践の第一歩であり、自力であるともいえ、仏陀の加持は他力とも言える。自力と他力は互いに表裏をなし、相互に照らし輝かす。菩薩道の修行者は、仏道実践の生活において、自力に限界があり、智慧が足りないのをただ恐れて、仏力の加護を得て速やかに成仏することを祈り請うのである。現実の世間は混乱が絶えず、災難は予期せず降りかかってくる。だから観世音菩薩の常なる加護が求められ、「千処にて祈求すれば千処にて応じ」、世俗の人々の要求を満足させるのである。

仏陀が出家修行し証道しようとした初発心は、無常世間を解脱し、生死輪廻を超越することである。仏陀は円満なる正覚を証得し、説法して無数の弟子を化度し、最後には娑羅双樹の下で横臥し、常楽我浄なる無餘涅槃に入ったとされている。弟子たちは仏制に従い、火葬し荼毘に付した後、無数の仏舎利を天下に頒布し、造塔供養し、仏法を流布した。これより仏陀はこの世に不在になり、像法時代に入った。僧衆は仏法が消失してしまうという深刻な憂いを克服するため、経典を流布書写し、講経・説法する以外に、仏舎利に対する崇拝を強めた。世間の護法皇帝、例えばインドの阿育王は仏法を広め、仏陀を供養し、各地に八万四千基の仏塔を建立した。隋文帝も阿育王にならい、積極的に全国各州に舎利塔を建立した。

無仏の時代において、修行者は造像し、将来弥勒菩薩の住する兜率天に往生することを願った。弥勒菩薩は遠い未来においてこの世間に下生し成仏し大いに説法し、あらゆる衆生を開悟させる。修行者は兜率天に往生し、将来また弥勒の下生につき従って、その教えを聞き開悟する。これが最初期の往生者の願いであった。南北朝末期になると、阿弥陀仏の西方浄土がしだいに兜率天にとってかわり、在俗の信徒が臨終の後に往生する目的地となった。阿弥陀が成仏する前、四十八大願を発していた。その内容は、極楽浄土世界が荘厳で光り輝き、物質的要求を満たし、修行精進する場としてふさわしく、さらには信者が臨終前にただ阿弥陀仏の名号を十回称念すると発願しただけで、必ず往生できるというものだった。

展示拓本からは、発願者が社会の各階層、すなわち、皇帝、貴族、官吏、将軍、兵士、僧侶と民衆を含んでおり、貴賤を分かたず、異なる時空において、各自が発願し、共同で仏の供養と実践修行に加わっていたことが看取される。(翻訳: 倉本尚德)
壱、荘厳
「荘厳」とは精美で華麗な珍宝によって舎利塔あるいは仏菩薩を装飾することである。仏像が出現するより以前の数百年間、仏陀の遺骨を埋蔵した舎利塔はインドの仏教徒がその信仰を表す主要な建築物であり、信徒は七種の宝物、すなわち金、銀、琉璃、真珠、珊瑚、硨磲、瑪瑙を尊重し、舎利塔を荘厳した。仏陀入滅後、舎利塔は仏法の象徴となった。アジア各地に陸続と無数の舎利塔が出現したことは、仏陀の法身が人々の崇敬を受けたことを表している。舎利塔を荘厳礼拝するのは、無形の仏法及び法身を供養することを意味している。荘厳の伝統は仏像の出現以降も続き、その影響は各地の仏教文化圏に普く及んだ。 南北朝以降、信徒の間で石碑あるいは石窟内にて仏菩薩像を彫刻し、造像の功徳を修行実践する、あるいは、現世と来世の善報に廻向することが流行した。供養者は慎重に石材・石匠をえらび、精細な文様を彫刻し、塗金彩色して仏像を荘厳し、最後に吉日を選んで、開眼供養儀式を行った。時には八関斎戒法会を行い、碑を刻んでその功徳を記念する場合もあった。これら仏像は多様な色彩で、菩薩の装身具もさらに複雑であった。しかし仏像を「荘厳」する意味はただ装飾、供養にとどまらない。その意義はさらに深遠である。 供養人造像はそれ自体が功徳を行うためである。その次に荘厳された仏像を廟宇、石窟あるいは街道に安置し、通行人がそれを観て歓喜と親近の心をおこし菩提心を発させる。これが第二の功徳である。 (TT)(翻訳: 倉本尚德)
壱、荘厳
壱、荘厳
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弐、崇因樹果
「崇因樹果」とは善因を崇尚し善果を建立することである。また、「修因得果」すなわち、善因が善果を生じ、逆もまたしかりということでもある。『雑宝蔵経』中の一節にある小さな物語は功徳迴向と因果業報の関係を明確に説明している。すなわち、昔貧しい兄弟二人がおり、兄は一日中財神に富貴を祈願し、弟はまじめに農作業に励んでいた。ある日天神が姿を現し、この兄に対して、「ただ福を祈るだけで働かないのでは何にもならない。修行布施し、福利を広く他人に施してこそ、富貴の果報を得ることができる」と説き示した。善因を修めないで、ただ神に祈求富貴を祈り求めても、木によって魚を求めるようなものである。福徳業報は果実のようで、成熟すれば自然と収穫できる。決して祭祀祈禱に頼って得られるものではない。つまり、一切福報は行為によって決定され、天神に祈り求めても無駄である。 仏法では、布施、持戒等の修行で自己を磨き、或いは造像写経、建寺造塔によって仏法を遠くまで広めることによって、衆生はみな仏法に親しみ近づくことができる。これが善因を植え育てる最善の方式である。このようにしてはじめて善因が生みだす功徳力を迴向し未来の善報を期待することができるのである。 この種類の造像記は仏像や寺塔の造営など、多種多様な活動を叙述する。造像内容もそれぞれ異なり、寺院の規模も異なる。功徳廻向の目的も多様であり、営造活動と祈願目的がそれぞれ異なっていてもこれら題記の多くが、供養者がかなり明確な因果応報の観念を有しており、苦難を抜除するには殊勝な善因に頼る必要があり、修善の最良の道の一つが写経造像であると知っていたのである。(TT)(翻訳: 倉本尚德)
弐、崇因樹果
弐、崇因樹果
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叁、現世利益
釈迦の年少時、衆生がみな生老病死の苦悩を免れられないのをまのあたりにし、王子の位を捨て、出家修行し、至高無上な解脫の智慧を求めようと決心した。それゆえ六年の苦行を経て、遂に正覚を成じ、弟子たちへの説法を開始し、無上の智慧をわかちあった。仏陀は衆生を利益することを求法の初発心としたので、大乗菩薩道の修行の重点は、すなわち衆生の離苦得楽であった。衆生を利益する方法はとても多い。四無量心(慈悲喜捨)、四摂(布施、愛語、利行、同事)、あるいは六度波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若(智慧))等はすべて菩薩の修行の法門である。 仏教徒からすれば、現世における最大の福報はひたすら仏道を学び常楽我浄の大智慧を得ることである。しかし現実の生活は煩悩を免れ難く、福報に安住できる人は少数である。仏典には多くの仏、菩薩が衆生を利益する弘大な願力を説いている。薬師琉璃光如来の十二大願では、病人が良医に出会い、長寿を求めれば長寿を得、飢渴、寒凍、牢獄の災等に遭遇すれば畢竟安楽であることを願う。 苦難からの救済を説く観世音菩薩の願力に対する信仰は、深く民間に浸透した。『法華経』普門品および『楞厳経』巻六は観世音の修行と救難の法力が無辺であることを讃えている。観世音菩薩が法界衆生を利益するその方便変化は無窮である、だから六変化観音、すなわち、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、准提観音、如意輪観音、さらには三十二応化身などが存在する。まさしくこれはいわゆる「千処に祈り求めれば千処に応ずる。」ということである。(YC)((翻訳: 倉本尚德))
叁、現世利益
叁、現世利益
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肆、修行実践
仏法の修行とはいわゆる八万四千法門である。しかしその根本はやはり生活中における実践である。多くの仏典は菩薩道修行の最良の道を説いている。例えば『楞厳経』では二十五種の法門を説き、《円覚経》では十二名の菩薩が修行法門の教えを請う。著名な『華厳経』入法界品では、善財童子が菩薩修行を学ぶため、諸国を周遊し、老若男女五十三人の善知識に対し謙虚に教えを請うている。 釈迦牟尼仏の生涯は菩薩道を修行し、最後に仏果を証得した模範例である。そのため仏伝の事蹟は頻繁に文字或いは視覚によって伝承された。今回の展示品である〈東魏武定元年道俗九十人等造像記〉には「摩耶夫人生太子九龍吐水洗」、「太子得道諸天送刀与太子剔」等の図像を線刻し、仏誕生から王宮を離れ、剃髪出家の過程までを描いている。仏教の因果観から言えば、釈迦が一世中において正果を成ずることができたのもまた、何世にもわたり菩薩道を修行してきた果報である。 多くの本生譚(Jātaka)は、前世における修行の経歴を宣揚する。この碑においては、例えば「如童菩薩賫銀銭与王女買花」は、花で仏を供養する故事を描いたもので、「五百夫人皆送太子向檀毒山辞去時」は太子(須達拏)が際限なく衆生に施捨するので、国王によって王宮を追い出され、辺鄙な山中で修行した時を描く。全体的に見て、この碑が刻む仏伝と本生譚はおしなべて修行実践の要義から離れるものではなく、菩薩道精神を宣揚するものともいえる。 最も殊勝に修行を表現したものは求法のための捨身である。人口に膾炙しているのは、薩埵太子の「捨身飼虎」と雪山童子の「施身聞偈」の故事である。後者は『大般涅槃経』聖行品が典拠であり、流伝も古く地域も広汎である。本展においては、四川茂汶〈南斉釈玄嵩造無量弥勒仏像記〉碑側においてこの図像を浮雕する。また、河南安陽北斉禅観窟、小南海中窟正壁(561年)にも見える。一世紀後、更には遠く七世紀日本奈良にも伝わり、法隆寺金堂に奉納される玉虫の廚子の側面の漆画にもこの故事が見られる。(YC)(翻訳: 倉本尚德)
肆、修行実践
肆、修行実践
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伍、仏法復興
南北朝以降、仏教信仰がしだいに興盛になり、僧侶は増加し、寺塔が林立した。しかしながら、仏教の発展は僧俗の信仰団体によるだけではなく、帝王による推進と護持に依存してはじめて維持され・繁栄するものである。仏教と国家は緊密に関係しており、運命共同体を形成した。皇帝が経済あるいは政治的理由で宗教政策を変更するとき、僧団と信徒を多数擁する仏教はその矢面に立つのを免れなかった。これが法難あるいは滅法と呼ばれるものである。 最初の法難は北魏太武帝拓跋燾(408-452)在位中に起こった。その次は北周武帝宇文邕(543-578)が行った富国強兵政策によるもので、僧の還俗、寺産没収、寺塔の破壊が行われ。北地仏教は滅亡の危機に瀕した。程なくして、隋朝が全国を統一した。隋文帝楊堅(541-604)は幼い時から仏教を信仰しており、即位後すぐに北周の廃仏政策を廃止し、寺院造像の修復を奨励した。注意すべきことに、文帝は転戦した四十五州の戦場に大興国寺を設置し、さらに晚年三度にわたり朝廷から舎利を分送しこれら官寺に分送し、全国一百一十一ヶ所に「仁寿舎利塔」を建立した。舎利を奉送する僧の任命から、一連の相関する建塔行事に到るまで、すべて文帝の命令を準則とし、体系化された計画によるものであった。文帝によるこの系統だった崇仏活動は、国家主導による全国仏教化を象徴すると同時に、転輪聖王が世俗の王権によって仏教を統御するイメージを表している。 「仏法復興」の主題では、特に隋文帝による三度にわたる舎利塔銘を取りあげ、隋文帝の敬虔な信仰心と仏法を借りて天下を教化しようとする願いを明示した。戦乱と廃仏の傷跡が残る中、隋代の仏教徒は造像碑銘中において、隋文帝が天下を平定し、仏教復興したことに対し、次々と感激の情を表して仏法を護持する皇室が永えに発展することを期待した。隋文帝が建立した一州一寺制、舎利の地方への分送と、全国の士庶が一致協力して挙行するよう命令したことは、後世にも多大な影響を与えた。例えば展示品〈晚唐憫忠寺重蔵舎利記〉中では、僧が武宗 (814-846) による会昌法難をくぐりぬけてきた隋仁寿舎利を再び埋葬したことを記す。題記は仁寿舎利塔の縁起にまで遠く遡り、舎利が雷火、法難をへて、依然として堅固であって壊れず、霊瑞を示したことを述べる。とりわけ碑文は再度の法滅の危機に対し警鐘を鳴らし、当時の王臣が仏法を尊崇し興隆する喜びを表現している。(TT)(翻訳: 倉本尚德)
伍、仏法復興
伍、仏法復興
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陸、浄土往生
『高僧伝』と『往生伝』の記載によれば、南北朝時代にはすでに多くの僧が阿弥陀仏に帰依し、西方への往生を希求したことがわかる。とりわけ東晋の慧遠(334-416)が最も著名である。慧遠は廬山において衆を集めて白蓮社を結成し、般舟三昧を実践し、阿弥陀仏を観想し、往生西方浄土への往生を願った。当時の多数の造像記中において、僧俗はなお釈迦仏、弥勒仏(菩薩)に対する篤い信仰を示しているが、実際、南北朝の浄土信仰の流行はやはりある種特殊な意義を有する。多くの供養者は造像記において、釈迦仏がすでに滅し、弥勒仏がまだ降臨しない時に生まれたことを歎いている。これらの語句は無仏の世において仏にまみえ教えを聞きたいという強い願いを表している。北魏末の僧曇鸞(476-542)も同様の嘆きを有していが、因緣によって菩提流支(508来華)の啓発を受け、浄土教を宣揚した。すでに涅槃に入った釈迦仏に対し、阿弥陀仏は今現に説法する現在仏であり、往生浄土を願う者は弥陀の願力によることで、この世で命を終えて後、浄土に往生し阿弥陀仏に見えることができるのである。 南北朝時代に萌芽した浄土信仰は唐代以後、高僧善導(613-681)らの多方面にわたる宣揚により急激に発展し、僧俗の間で多大な反響があった。この時代の阿弥陀造像は各地で見られる。本テーマでは南北朝と唐代の拓本を選び、比較対照することで、浄土信仰の二段階の表現方法が信徒の認識と期待の差異を反映していることを明らかにする。 南北朝時代の浄土に関連する碑銘は造像と題記の方面において、多くは無量寿仏を主としており、観音と大勢至菩薩を両脇侍に刻することは決して多くはない。弥陀を帰依対象とするものでも浄土の光景の描画を欠いている。唐代の碑刻は叙述と造像においてさらに表現豊かになっている。題記では浄土の華麗な様子を描写し、西方三聖の名称と形態を浄土修行の方式、さらには願文中において臨終の際に弥陀と観音大勢至菩薩の来迎を期待するものまである。南北朝の専ら浄土往生の願望を表すだけであるのと比較して唐代の碑刻は信仰者のために浄土の事物を描いており、清浄な仏国土に対する切実な憧れを表している。 (TT)(翻訳: 倉本尚德)
陸、浄土往生
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