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乾隆帝以降、皇帝の遺詔の製作は、多くは臣下が皇帝の諭令の中から適宜選んだもので 、彼の功績をひとしきり賞賛し、亡くなった皇帝の口調でもって自らの歴史的地位を定めていくというものである。嘉慶帝の遺詔を公表した一ヵ月あまり後、道光帝はその遺詔の
乾隆帝以降、皇帝の遺詔の製作は、多くは臣下が皇帝の諭令の中から適宜選んだもので 、彼の功績をひとしきり賞賛し、亡くなった皇帝の口調でもって自らの歴史的地位を定めていくというものである。嘉慶帝の遺詔を公表した一ヵ月あまり後、道光帝はその遺詔の
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乾隆帝以降、皇帝の遺詔の製作は、多くは臣下が皇帝の諭令の中から適宜選んだもので 、彼の功績をひとしきり賞賛し、亡くなった皇帝の口調でもって自らの歴史的地位を定めていくというものである。嘉慶帝の遺詔を公表した一ヵ月あまり後、道光帝はその遺詔の

嘉慶帝の遺詔を公表した一ヵ月あまり後、九月六日の時に、内閣は皇帝が随時ご高覧頂けるようにと準備した遺詔の副本を上呈したが、道光帝はその遺詔の中に書かれた乾隆の生誕地である避暑山莊のことが事実と相違することに気付いた。そして彼は自ら乾隆朝の実録を調査し、乾隆が「康熙辛卯八月十三日子時、雍和宮にて誕生した」ことを確認した。当初、遺詔の草稿執筆の任に当たっていた軍機大臣の托津、戴均元、盧蔭溥及び文孚の四人には厳しい処罰が与えられた。
 
典藏號
144218-001
期間
嘉慶25年9月15日(1820.10.21)
尺寸
摺件 25x11cm
材質

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