小学の道 - 漢簡から見る漢代識字教育
漢代の識字教育は「小学」、上級教育は「大学」と呼ばれます。東漢崔寔の《四民月令》は、毎年の正月と八月に「幼い子供を小学に入学させ、書の篇章を学ばせる」という記事があります。篇章というのは、識字書である《蒼頡》と《急就》のことです。そのほか、学童は数学計算の九九術や、時日・干支を計算する六甲などをも勉強しなければなりません。その中に、識字はもっとも重要な授業であり、識字書も両漢時代に渡り増補、修正しつつありました。「小学」は字書の総称とも言えられます。
敦煌および居延漢簡の中で、練習のため《蒼頡》、《急就》、九九、六甲を 抄写した大量な残簡や、ほとんど完全無欠な毛筆一本を発見したことにより、両漢中期から東漢明帝時期まで辺境にある兵士は、辺境防衛を機に初級レベルの教育を受けたことを証明されます。
当特別展は、主に居延から出土された、隷書・草書・篆書で書写の練習をした《蒼頡》、《急就》、六甲干支および九九の簡・牘と觚を取り上げ、さらにいくつか書跡の美しい簡牘を精選し、書道の愛好者に差し上げます。
敦煌および居延漢簡の中で、練習のため《蒼頡》、《急就》、九九、六甲を 抄写した大量な残簡や、ほとんど完全無欠な毛筆一本を発見したことにより、両漢中期から東漢明帝時期まで辺境にある兵士は、辺境防衛を機に初級レベルの教育を受けたことを証明されます。
当特別展は、主に居延から出土された、隷書・草書・篆書で書写の練習をした《蒼頡》、《急就》、六甲干支および九九の簡・牘と觚を取り上げ、さらにいくつか書跡の美しい簡牘を精選し、書道の愛好者に差し上げます。
I、字書
《漢書・芸文志》によれば、古代中国の字書は《史籀》を最初として、その次には《蒼頡》が誕生しました。漢代以降小学が発展し、《凡將》、《急就》、《元尚》なども次第に現れました。漢簡中に現れる字書の主要なものは《蒼頡》、と《急就》です。居延および敦煌でも《蒼頡》、《急就》を写した「習字簡」が出土し、イギリス国家図書館も一千件を超える《蒼頡》の削衣(木牘から削られた木片)を収蔵し、いずれも《蒼頡》、《急就》が漢代辺境兵士の重要な識字教科書であることが証明されました。
《蒼頡》
《蒼頡》は字書の元祖とも言われますが、およそ唐と宋の間に伝承が途絶えてしまいました。これまで敦煌、居延、安徽の阜陽、甘肅の水泉子漢簡および北京大学所蔵の西漢竹簡のなかに《蒼頡》が発見されましたが、とりわけ阜陽漢簡が漢字数を一番多く保存しているとされています。《蒼頡》の配列順序は主に「義類」をもって決められ、すなわちその意味の同じもの、あるいは近い関係にある字や詞を隣に配置し、大きなカテゴリーに分類させ、押韻に適合させ、四言で一句をつくり、韻によって引くことのできる字書となっています。注目すべきなのは、近年甘肅水泉子で七言一句の《蒼頡》が出土したことであり、これによって、《蒼頡》に対してより一層理解を促すこととなりました。
《急就》
II、毛筆と「習字留痕」
漢代の文房具は、毛筆、墨、硯、書刀と簡牘があり、居延で発見された習字用品には主に毛筆、觚、廃棄された竹簡があります。漢代の辺境地帯で出土した毛筆は、居延以外にも敦煌馬圈灣、懸泉置などでも発見されました。居延と敦煌で発見された觚は、字書の抄写や文字を書く練習のために多く使用されました。觚は多面体により重複して文字を書くことが出来、書くスペースがなくなれば、あるいは書き間違ったときには、また書刀で削ればもう一回書き直せます。觚や簡牘から削りとられ、字が記されている薄片のことを「削衣」と言います。辺境地区では資源欠乏のため、たいてい廃棄された竹簡で習字し、さらには習字するために整えず、樹皮のついたままの木の上に習字しました。
III、習字の簡
IV、隸書
V、草書
VI、篆書
VII、六甲干支の簡